これまで、12勝次点の場合は実績のある大関なら綱取り起点となりうると説明してきました。
では、12勝同点の場合の処遇はどうなるのか?
今回は、12勝同点について研究したいと思います。


あらかじめ言っておきますと「また12勝の話かよ」と思われるかもしれませんが、昭和の時代には13勝準優勝の場合は原則的に準ずる成績として扱われており
準ずる成績(綱取りの起点)の分かれ目となるのが12勝準優勝であり、大関の実績次第で準ずる成績になったりならなかったりといった事が起こっております。
これが崩れるのが昭和末期、双羽黒が騒動を起こし廃業した事で徐々に綱取りは厳しさを増し、連続優勝原則の時代へと入っていきます。
連続優勝原則の時代の終わりが見え始めるのは2004年、新理事長に就任した北の湖が「優勝しなくとも13勝上げれば準ずる成績」という新たな指針を決めた事で徐々に緩和されていきますが
それでも白鵬が14勝優勝―13勝次点で綱取りを見送られたり、日馬富士が連続優勝でもどうかと言われるほど極端に厳しい条件を付けられたりと一概には準ずる成績を認めるという考えは浸透しませんでした。

そしてこれが劇的に変わるのが大関・稀勢の里の登場であります。
稀勢の里が13勝次点で幾度もの綱取りを行うに至り、北の湖の13勝論は確立。連続優勝原則の時代は完全に終焉を迎えます。
さらにはそれでも横綱になれない稀勢の里が12勝次点―14勝優勝で横綱昇進を果たした事で、準ずる成績の基準は12勝準優勝という昭和の時代まで先祖返りする事となりました。

この「12勝次点を場合によっては準ずる成績とする」基準ですが、2018年11月場所で12勝次点だった高安が翌場所を綱取りとされそうになった所を見ても
これが稀勢の里一代のものではなく今後もこの基準で綱取りの運用がなされる、いわゆる「令和の時代」の基準だという事が分かります。

なので「12勝準優勝」でどうなれば準ずる成績になるのかならないのかを突き詰めていくわけでありまして、必然的に12勝準優勝にスポットが辺りがちになるのです。


話を最初に戻して、12勝同点について見ていきましょう。
この「12勝同点」という成績の立ち位置、内規誕生後で昭和の時代には大関としてこの成績を上げたのが柏戸しかおらず、柏戸はこの場所で12勝優勝した大鵬と共に横綱に昇進しており
12勝同点が素直に綱取りの起点となるのかどうかというのが内規誕生後の昭和ではデータとして存在しない為に中々判断が難しい所であります。
果たして昭和の時代、単純にいきなり12勝同点を上げた大関の場合の対処法はどうなっていたのか?
同点だった事を見て綱取りとしたのか?はたまた準優勝扱いとひとくくりにして12勝次点と同様の処置が取られたのか?
この12勝同点での綱取り起点を見せる事の無いまま平成に入り、貴ノ浪武蔵丸の二人が12勝同点の成績を出しますが、時はすでに優勝が起点の連続優勝原則の時代であり綱取りとはなりませんでした。

唯一、相撲協会がこの「12勝同点」での対処法を見せたのは、照ノ富士が12勝同点となった2015年9月場所であります。
13勝論を掲げていた北の湖理事長ですが、12勝ながら優勝同点となった照ノ富士に対して当初は「13勝と12勝では重みが違う」と準ずる成績には否定的な発言を行います。
しかし、照ノ富士の師匠である伊勢ヶ浜審判部長はこれについて「準じる成績で間違いない」と発言し、理事長と審判部長の綱取りに対する認識は真っ向対立してしまいます。
結局、守屋横審委員長の取り成しもあり、翌場所は「正式な綱取り場所ではないが、全勝レベルの優勝なら横綱昇進もあり得る」という実質綱取り場所となりました。

新しい令和の時代、12勝次点での綱取り起点が実績次第とすると、12勝同点となった場合には照ノ富士の前例に倣って「全勝レベルの優勝なら」という実質綱取りの起点となるのではないかと予想します。
しかし結局のところ予想は予想。どういった対処となるかは実際に大関が12勝同点となってみないと分かりませんので、そこは楽しみに注視しておきたいと思います。